この広告、メッセージは90日以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事でこのメッセージが消せます。
  

Posted by あしたさぬき.JP at

2009年04月22日

続きはTwitterにて

筆がとまってしばらくたちます。すみませんです。

他の文筆活動が活発になってきておりまして、ここへエネルギーを割くことができず(言い訳)、続きはTwitterで。というか、ほぼすべての僕からの情報はTwitterに集約しておりますので。


http://twitter.com/kmorita/

Twitterもしばらく放置していたのですが、ユーザー数が一定の数を超えて、かなり面白くなってきてますよ。日本人にはとっつきにくいかもしれませんが・・・。アーリーアダプターレベルはもう超えてきてるような・・・。
  


Posted by kmorita at 12:39Comments(0)はじめてのかたへ

2009年03月17日

退職手続き進む

ほぼ引継ぎも終了し、僕は退職の日をそれでもまだ慌しく過ごしていました。ある日、総務部長に呼び出しを受け、退職に向けての説明がありました。詳しいことは忘れましたが、辞めた後も守秘義務がものすご強烈に効いてくるのだという旨の文章に署名させられたことだけはよく覚えています。で、こんなブログ書いてちゃいけませんかね(汗)

組合に預金していた積み立てを取り崩したり、財形を取り崩したりと、その後の創業に向けた資本金となる元銭も整理していきました。さてさて、退職金はいくらかなぁ?とちょっと夢を膨らませていました。

先に仕事をやめた姉が、同じ東証一部上場企業で、短大出のいわゆる一般職でしたが、確か30万円ほどだったと聞きました。在職年数は確かに僕のほうが短いですが、まぁ期待しましょう。

そんなころ、同じ日立に同期で入社した高校の同級生の女性から電話がありました。

「あ、もりたくん?元気?」
「おぉー、元気やで。久しぶりやねー」
「うん、わたし、実は今月で日立やめたんよ」
「えぇ!?ほんまなん!?俺も来月で退職するんやわー」
「へぇ!!ほんま!!それはまた男子やのに思い切ったねぇ!」

とそんな感じで共に日立に入って同じ時期に日立を去るってことで、在職中はほとんど会ったこともなかったのに会話が弾みました。

「ところで、退職金っていくらだった?」
「もりたくん、楽しみにしてるの??」
「いや、まぁ、そのいろいろ金も必要やからねぇ。」
「聞かんほうがええよ・・・」
「え?そんなに少ないの?」
「うん。」
「30万ぐらい?」
「あほちゃう?」
「え?20万ないの?」
「話にならん・・・」
「え??」
「えとねぇ。私の場合で4万ちょっと。もりたくんの場合は一ヶ月多いから4万2千円ぐらいちゃう?」


いやはや、驚愕でした・・・。長く勤めないと退職金って意味ないんですね・・・。

このあたりから僕のマネー計画が狂い始めたんだと思います。



(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 16:24Comments(0)起業の思い出

2009年03月09日

いよいよ引継ぎ開始6

緊張感で包まれて、A大学を訪問した僕。

「いやぁ、森田君。なに?話って?先週の金曜日来たばっかりじゃない?」
「えぇ、まぁ・・・。」
「なんかいいにくい話?」
「いえですね・・・」
「なになに?」
「実は・・・。」
「6月で辞めるって事?」
「え!?!!!!????」
「それだったら、Mさん(上司、主任)から聞いてるよー。いやぁ、寂しくなるねぇ。」


がーん!既にもう僕の大半のお客さんには話が行っていたのだった!恐るべし、大企業の裏の裏。

「そうでしたか。いやぁ、緊張してきたんですよ・・・。大事にしていただいたんで。」
「そうだねぇ。ほんまこっちこそありがとうね。よくしていただいたよー」
「それで、例の来年のお約束の件ですけど・・・」
「あぁ、それもMさんが任せといてくださいって帰って行ったよ。」
「そ、そ、そですか・・・・。」

僕はこの時、気づきました。さすがMさんというか、大企業のなせる業です。「金庫」である僕のユーザーは、そのマイナス面の約束まで含めてすべて手が回ってて、今後は課の中で新たな「金庫」に育つのでした。この継続性が大企業なのです。

後に、さらなる恐ろしい事実を僕は知ることになるのですが、この時はいよいよ目前に迫った退職に、多少寂しさを感じる日々を過ごすことになっていました。



(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 13:50Comments(0)起業の思い出

2009年02月18日

いよいよ引継ぎ開始5

A大学は長年のユーザーで、僕自身も一番惚れこんでいた大学でした。用事が無くてもしょっちゅうお邪魔して、ミスドなど手土産に、キーマンの先生だけでなく、若手の職員の方々のハートも掴んで、ある意味安泰なお客様でした。が、それでも入札になるケースはあり、そういう場合は、他の業者とある意味談合に近いこともしつつなんとか体面上は僕の数字になるようにいろいろ苦労したものです。これも今だから書ける内容。いや、ダメか(笑)。

当時は、営業の采配でけっこう自由に受発注ができたところがありまして、例えば、A大学で余裕のある受注ができた場合は、赤字ぎりぎりのB大学に費用を回すというようなことができました。別に僕が悪いことをしていたと言うより、制度上それが可能だったのです。なので、苦しくて、普通なら受注できないB大学でもA大学の費用を回すことで、思いっきりディスカウントして受注!!結果的に売上極大!なんてことが可能だし、みんなやってました。売上主義だったんですね。具体的にはB大学のSE作業費をA大学の費用で行うとか。

僕にとってのA大学はいくつかある「金庫」代わりのお客様でして、A大学のおかげで、受注が拡大できたと言っても過言ではありません。

そんなA大学さん。先方の知らないからくり数字もあるわけで。カミングアウトに向かう僕にも緊張感が漂います。

(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 18:07Comments(0)起業の思い出

2009年01月30日

いよいよ引継ぎ開始4

社内的な引継ぎは、資料らしきものも作り、Nさんにレクチャーをして、なんとか進んでいましたが、いよいよお客さんへのカミングアウトをせねばなりません。これまで書いてきたように、僕の営業スタイル(というか、当時の僕のいた部署の営業スタイル)は、担当者が主任や課長になって後輩に代々受け継がれつつも、同じ部署で継続的に関与することが前提のスタイル。というのも、

・お客さんとの間で契約書に残せないような約束事が山ほどある。
・予算達成や案件受注のために売上の先食いや、案件間での帳尻あわせもある。

などの理由がありまして、急に担当者がいなくなるというのはかなり困るわけです。社内におけるグレーゾーン(今なら真っ黒ですが)は、主任Mさんと、T課長にお任せすることにしましたが、お客さんとの密約系はある程度僕自身で解決しておかねばなりません。僕の場合、密約結ぶほどの濃厚なお客様が5件ほどありましたが(笑)、その中でもA大学とS大学はどうしたものかと悩んでいました。

そして、ある夕方。もうお客様も帰宅を考える時間帯に、僕はA大学のお客様の部屋を訪ねました。


(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 09:34Comments(0)起業の思い出

2009年01月29日

いよいよ引継ぎ開始3

なんか話が逸れていってますが続けます。

お客さんの仕事をいただいて帰るわけですが、そんなわけで、日々、パソコンやらワープロ専用機に向かって、

・業者向けの要求仕様書の作成
・文部省向け助成金の申請資料

などを作成していました。技術資料はシステムエンジニアに依頼するのですが、仕様書の文言、例えば、「パッと見た感じではどのメーカーでもできるような資料でも、実は我が社しかその仕様を満たせない・・・」というような暗号めいた文章は営業サイドが書いていました。また、相見積もりした結果の「採択理由」などもわざわざ競合各社の製品の特徴を調べた上で、こじつけ的ながらも採択にいたった理由をもっともらしく書く必要があります。その他にも膨大な文章をとにかく並べて、先輩やSEの方々に確認して、「案」として仕上げていきます。

これらの作業の後半は、お客さん先で膝突き合わせてすることも多いです。というのは、僕なりがゴーストライターになった資料ですが、他の業者や文部省の役人に説明するのはお客様なんで、最終段階では、打ち合わせやらレクチャーやらが必要になります。だいたい夜遅くなってしまうことが多く、お客さんが出前を取ってくれたり、近所のラーメン屋に行ったり。そしてこういう時間の共有が信頼関係(ある意味正攻法じゃないんですけど)になっていきます。

で、そういうグレーな部分を生真面目なNさんに引き継ぐのは難題だなぁ・・・と思う日々でした。



(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 09:56Comments(0)起業の思い出

2009年01月23日

いよいよ引継ぎ開始2

お客様の仕事を代理ですることで受注に結び付けていたので、それはそれでけっこうな負担ではありましたが、さすが大企業。過去のノウハウがかなり蓄積されていたことと、僕がMacを自腹で購入して、いち早くIT化を進めたこと、そしてネットをフルに活用できていたので効率は良かったと思います。そんなビジネススタイルでなかったNさんに引継ぎするのはかなりの至難の業でした。結果的に、「Mさん(主任)、後はよろしくお願いします・・・」ということが多かったように思います。

お客さんからいただく「お客さんの仕事」で多かったのが、

・業者向けの要求仕様書の作成
・文部省向け助成金の申請資料

の2つでした。どちらも、もちろん本来は大学サイドの方々がすべき仕事であって、業者がすべき仕事ではありません。どちらも、入札なり、競争前提の調達に関わる根幹部分ですので、ここに業者が関与すると言うことはあってはないらないことでしょう。ですが、営業としてはここを押さえないと「価格競争」になるか、その時のトレンドのメーカーにさらわれるのを指をくわえて見るだけになります。参加業者全体で話をつける(いわば談合ですね)方法もありますが、まずは、自社の立ち位置をもっとも有利にするために、お客様のもとに通い、お客様のニーズを満たすことが重要です。この場合のニーズは、必ずしもその大学なり研究機関にとって最高の「システム」を導入するということではなく、担当者の方々の、

・目の前の事務のタスク処理 (早く帰りたい)
・導入後も面倒をしっかり見てくれる安心感 (トラブルも丸投げしたい)

だったりします。



(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 10:40Comments(0)起業の思い出

2009年01月22日

いよいよ引継ぎ開始1

さて、わりと普段どおりに仕事を続けていましたが、いよいよ退職日である6月が近づいてきました。4月に入って引き継ぎ相手のNさんが同じ部署にやってこられました。Nさんは年上のベテランさんで、ものすご真面目な感じの方。僕が不真面目だったわけではないのですが、お客さんとの信頼関係を前提になぁなぁでやっていたこともあったので、引継ぎが難しい局面も多々ありました。

僕の営業スタイルは、先輩方の遺伝子が多少入っていて、「製品のメリット」やらを訴えると言うことはあまりしませんでした。かと言って、「接待」などで貸しを作るわけでもありません。主な手段は、「担当のお客様の仕事を代わりにやってあげる」ということです。

ターゲット産業が大学や文部省の出先の研究機関だったわけですが、公務員、もしくは公務員的な職員さんか教授の方々が営業相手になります。この方々は、基本、あまり事務作業をすることが好きではありません。ただ、どこからか予算がついて締め切りが出てくるので、常にタスクを抱えています。僕はそこに出かけていって、

「今回の資料作成は大変そうですね・・・。」
「ほんまだよー、森田くん。このままじゃ徹夜だよー。いやになっちゃうよー。」
「でしょうね。ちょっと本省からの資料を拝見してもよろしいですか?」
「なんかねー。読んでもわけわかんないんだよー。これだけど。」
「うわー。ややこしいですね・・・。けど、これ確かT大で以前あったやつとよく似てますね。東京の営業に聞けば同じようなフォーマット持ってるかもしれませんよ。概要図なんかも。」
「え?ほんと??」
「なんでしたら、僕のほうでたたき台を作ってみましょうか?たぶん明後日ぐらいまでには形ができると思います。」
「ほんとに!!!???それは助かるわー。」

こんな感じでお客さんの「仕事」をもらってくるのです。そして、会社に戻って、ない頭を使って、書類をひっくり返して、東京の同期に協力してもらって、なんとか「お客さんの資料」をこっちが徹夜で作るわけです。


(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 08:53Comments(0)起業の思い出

2008年12月29日

退職を申し出る4

H部長の波状口撃にひるんだ僕。

と、そこに尊敬するT課長が登場。T課長はM主任の師匠でもあって、テクニック面の僕の師匠がM主任とすると、T課長はハートの面の師匠でした。T課長は部内の若手の気持ちも掌握していて、週末にはよく麻雀温泉旅行に出かけたり、みんなで競馬場にいったり、競艇場に行ったり・・・・なんかギャンブルの思い出ばっかりですね。

そのT課長がバーン!とドアを開けて入ってきたのです。

「おぉ!森田、聞いたぞ!」
「今それで、僕が森田君を説得してるんだよ。T君も言いなさい!」


「森田!このままやめたら後悔するぞ!」
「はぁ・・・」
「俺だって悲しいじゃないか。」
「え・・・」
「仲間が減るじゃないか。」
「う・・・」
「温泉に行って二抜けで麻雀できなくなるよ、まったく!!」
「え?」
「辞めるのはいいけど、俺にツケの20万は早く払ってね、じゃ。」
「えー!」


T課長のおかげで雰囲気はがらりと変わりました。まぁ、その後も散々もめたんですが、夏のボーナスをもらって、それでT課長への借金(すべて麻雀の負け代)をきっちり払ってから退職する方向で決まりました。

ただ、1996年になり、世は益々インターネットブームで、僕のいた部署は空前の好景気。僕もまだまだ仕事に明け暮れるのでした。


(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 10:36Comments(4)起業の思い出

2008年12月26日

退職を申し出る3

なんとか、しんみりモードで退職の話を上司のMさん(当時主任)に告白できた僕でした。重荷のひとつが取れた気分で翌朝会社に来てみると、部長や課長が座っている幹部席のあたりの空気が明らかに違う!!みんなチラチラと僕の顔を見ては深刻そう・・・。

「おぉ、森田、ちょっと会議室行こうか。」

とMさん。えぇ、もう部長達に話行ってるんですか・・・。早いですね。まだ12時間もたってませんよ・・・。

会議室で待ってると、H部長とMさんが入ってきた。

「森田くん、困るねぇ・・・。困るんだよ。こういうのは。」
「はぁ。」
「何が不満なんだい?」
「いえ、不満っていうことはなくって・・・」

どうやら、退職理由など、しんみりモードの件は伝わっていないようだ。

僕は簡単に昨夜と同じように父の件などを話すのだけど、お酒の入った夜の席でもないので、昨夜のようにはしんみりしてこない。話せば話すほど僕がわがまま言ってるようにも聞こえてしまう。なぜなんだ!?

「会社が君にどれだけ投資したと思ってるんだい?いや、会社だけじゃない。僕をはじめ、部のみんなも君の将来、君の会社の中での立場も含めて応援してきたんだよ。ちょっと冷たいんじゃないか。」

というようなことを1時間ぐらい聞かされただろうか。

「お父さんのことはわかるけど、それはお兄さんだけで解決することだろう?」
「君は大卒で、大きな案件も担当して、成績も優秀。工場のみんなからも慕われているし、子会社の営業マンとも信頼関係ができている。こんな素晴らしいことはないんだよ。もったいないぞ。」

いや、ほんまおっしゃる通り。うーん、僕の甘い理論武装が崩されそうだなぁ・・・。



(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 10:25Comments(0)起業の思い出

2008年12月25日

退職を申し出る2

リストラなんかどこ吹く風で、けっこうまだまだお涙頂戴が通じる社会ということもあって、僕はこれなら文句は出るまいという退職理由を話し始めた。

「じつは、実家のおやじの調子が悪くて・・・」
「え?!」
「すぐにどうこうではないんですが、やっている仕事のほうに無理が出ていまして・・・」
「森田のおやじさん、おいくつだったっけ?」
「えーと、58歳です。」
「まだまだ若いのになぁ・・・」
「それで、兄貴と相談して、おやじの仕事を一緒にやろうと」
「おやじさん、何やってるんだっけ・・・・?」
「小さな工務店ですが、住宅現場への職人さんの斡旋みたいなことを」
「なるほどなぁ・・・」

僕の予想以上にしんみりしてきてしまって、正直あわてた。が、ここは踏ん張りどころだ。

実際は、父はものすごく元気で、職人の斡旋なんかやってなくって、現役バリバリの左官職人として毎日いきいきと仕事していた。

某社(日立製作所ですけど)の先輩Mさん(当時主任)、今になってここで告白します。

嘘でしたー。


(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 10:07Comments(0)起業の思い出

2008年12月24日

退職を申し出る1

名古屋に戻った僕は考えました。まずは両親に話しておくべきだろうか?いや、流動的な段階で年老いた両親に話するのも面倒だな・・・。悩んだ末に、会社と両親、なるようになれで平行して進めようと決めました。

ただ、一番最初に話をするのは配属時から二人三脚でやってきた、上司でもある先輩Mさんであることは間違いなしです。仕事に対する考え方、やり方、心構え、酒の飲み方、資料の作り方とすべてを教え込んでくれたのがMさんでした。後半は考え方の違いから別々に仕事をすることも多かったんですが、基本的に僕のビジネスの師匠筆頭です。ほぼ毎晩呑みに出ていましたんで、その晩もごく自然に呑み屋に向かいました。

「さむーなってきたなぁ・・・。まずはビールで。はい、お疲れさん!」
「Mさん、あのー、ちょっとお話が。」
「おぉ。なに?ドキッとするじゃない。」
「まぁ、なんと言いますか・・・」
「なに?なに?なにー?会社辞めるっていうんじゃないだろうねぇ?」
「えー!?なんでわかったんですか?!」
「えーーーーー!!!!???」

とまぁ、よくある展開ですんなりカミングアウトは終了しました。

が、そこは「終身雇用制」がもっともしっかりしている会社ですから、精神的な長期の病気にでもならない限り、「中途退職」なんてありえないのです。ありえない中での話しなのです。今ほど社会の雇用状況が流動的でもありませんでした。さらに1995年はまだまだ失われた10年の真っ最中です。大企業にしがみついておくことのメリットは計り知れませんでした。

「まぁ、ええわ。で、理由はなに?俺が原因??」
「いえいえ、もうMさんはじめ、職場の皆さん、お客さん、とてもありがたい存在です。」
「そうかー。じゃぁ、なに?」
「うーんとですね・・・」

そこから僕は考え抜いた退職理由を話し始めた。ほんとうは、「先の見える未来が嫌なんです」という青春真っ盛りな理由が本当だったんですけどね。


(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 10:33Comments(0)起業の思い出

2008年12月23日

大企業を退職する決意7

奥蓼科の明治温泉は、名古屋で仕事をするようになって、僕が夏に冬に何度も通っていた定宿です。名前から明治頃にできた温泉のようですが、実は天保時代からで、名前の由来は、「明らかに治る温泉」という意味からなんだそうです。素晴らしい自信ですよね。ここは今でもお気に入りです。

明治温泉

その明治温泉に到着し、鉄分の多い素晴らしい湯につかり、徹夜で車で走って、そのまま遊び倒した疲れを取ります。夕食はこれまた山の幸たっぷりのご馳走です。思わず、「ビールもう一本!いや、二本!」と酒も進みます。

「いやぁ、うまいなぁ。」
「やねぇ。」
「それはそうと、事業計画やけど。」
「そうやなぁ、キーワードだけでも出しとこ。」
「まずは、もう一杯。」
「こりゃどうも。」
「キーワードか・・・」
「はい、どうぞ!」
「こりゃどうも。」
「例えば・・・・、アウトドア?!」
「そりゃいいね!はい、もう一杯。」
「こりゃどうも。」
「それで、決まり!」
「こりゃどうも。」

そんな調子で、たっぷり呑んで、なんか喋って、いつの間にか寝不足も手伝って深い眠りに落ちていった三人でした。事業計画書などはまったく進まなかったわけですが、なんだか、未来が明るくなったと幻を見た合宿でした。

僕は名古屋に戻り、いよいよ退職の決意を固めることになります。

(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 15:55Comments(0)起業の思い出

2008年12月22日

大企業を退職する決意6

八ヶ岳山麓の横岳ピラタスロープーウェー乗り場について、山の上に向かいます。山頂駅は氷点下10度。積雪はまずまずの量。歩いて縞枯山荘に向かい、装備のない兄と友人Aのテレマークスキーをレンタルします。山荘前の傾斜を利用してしばらく練習。そこそこ滑れるようになってきたので、食事を担いで雪の中を行軍です。

丘を越え、森を抜けると広い雪原があり、僕達はそこで持ってきた食材で鍋焼きうどんを作ります。気温も5度ぐらいまであがってきて、滑っていると汗が出るほど。調理といっても具材を放り込むだけなんで、待っている間は滑って遊んだり、ワインを飲みまくったり。ワイン、滑降、ワイン、滑降、ビール。という感じで、下界のことなど忘れて、僕達は雪の中のデイキャンプを楽しみました。

「あれ?俺達何しに来たんだったっけ?」
「えーと、まぁ、夜考えようや、夜!!」
「そうやね!まずは我々の前途に乾杯~!」
「カンパーイ!」
「なんか、なんでもええような気がしてくるな!」
「ほんまやな!」
「こんな景色、ないよな。」
「ないな!」
「カンパーイ!」

冗談みたいですが、起業をする時にはありがちな盛り上がりです。特にアルコールは厳禁です。僕達はたっぷり呑んで遊んで騒いで、今宵の宿泊所の明治温泉という宿に向かいました。奥蓼科の情緒ある温泉宿です。


(続く)


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 16:57Comments(2)起業の思い出

2008年12月20日

大企業を退職する決意5

さて、起業するための事業計画を作ることになったんですが、僕達はあまりその辺の意識は薄くって、もっと、

「気合だ!」

って感じが強かったと思います。とはいえ、意識をあわせることは必要だと思ったので、合宿を決行したんですが、先導役の僕が選んだのは、「八ヶ岳山麓」。兄が東京で、友人Aが大阪。僕は名古屋。ちょうど真ん中という意味では名古屋でよかったんですが、僕にとって非日常でないので、僕が当時はまっていたテレマークスキーに二人を誘ったのです。

金曜の夜中に大阪から来た友人Aを車に乗せ、深夜2時ごろに、夜行で着いた兄を茅野駅でピックアップして、八ヶ岳山麓の横岳ピラタスロープーウェー乗り場へ。

「おい、けいじ。ここで事業計画作るんか?」
「おぉ。まずは体力づくりが重要やけんの。雪山で雪中行軍や」
「なるほど!」
「寒いけん、根性いるで!!!」
「まかせとけ!!」

こういうノリであったことが、いちいち後で痛い目にあうわけですが、当時は「起業する」ことに興奮していて、完全に冷静ではありませんでした。



(続く)


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 20:50Comments(2)起業の思い出

2008年12月19日

大企業を退職する決意4

兄と意気投合したんですが、兄弟で起業するというのもなんかよくある話っぽくてその時はもうひとつパンチが足りないと考えていました。そこで、兄もよく知っている僕の友人を誘うことにしました。これもまた、県外の私立四大を出ていて、日本で一番大きな損保会社で働いていたのですが、電話してみると、何やら行き詰っている様子で、二つ返事で、

「えーと、じゃぁ、来月にでも辞めようかな?」

などと軽い・・・。

僕はといえば、大きなプロジェクトをかなり抱えていたので、すぐに辞表を書く勇気は無くて、躊躇していました。そもそも、当時の「日立」でしかも大卒で、病気にでもならない限り自分から進んで辞める人間は皆無でした。それだけしがみついていれば、安泰が保障されていたのです。後輩で、毎朝起きられなくって、その後、休みがちになり、とうとう長期で休んだ末に退職したのがいたんですが、そんな野郎でも、その後、子会社が引き取ってくれて社会に復帰しました。本体にさえいればかなり手厚いのです。

まぁ、辞めるにしても、起業して何をするのかをある程度決めていかないと無謀です。そこで、僕たち三人は、合宿をすることにしました。


(続く)


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 18:04Comments(0)起業の思い出

2008年12月19日

大企業を退職する決意3

兄は当時香川の地元では誰でも知っている大手クレーンメーカー(いやはや、現在弊社のお客様です!)でバリバリの営業をやっていて、神戸、大阪でそこそこ結果を出した後、東京に転勤していました。一度、東京に僕が出張に行った時、両国あたりの居酒屋で久しぶりに馬鹿話しつつ想いを語り合いました。

僕はなんだかんだ言って、四歳年上の兄の背中を見て育ってきたところがあって、保育所、小学校、中学校、高校(コースも同じ)、大学(学部も同じ!!)まで兄と同じというどうしようもない弟なのです。

バブル絶頂時に日立に入るときに周囲の

「なんで日立選んだの?」

の質問に、

「うーん、日立が潰れる時にはもう社会がめちゃくちゃになってるだろうから、そのときはあきらめつくやんか」

とこたえ、自分でもびっくりの安定志向感覚で入りました。その安定が嫌になったわけです。横並びの想像がつく未来が嫌になったのです。そんなとき、ダメな弟の僕はまた兄を頼っていたのでした。

僕は、手帳を見ながら兄に電話しました。数コール後、僕に似た声の兄が電話に出ました。

「おぉ、元気?」
「まぁまぁやで。お前は?」
「まずまずやけど」
「おう、それはよかった。なんや?なんか用事か?」
「うん、あのなぁ、そろそろやと思うんや、そろそろちゃうかなと!」
「おぉ、そろそろやろー!そろそろやで!」
「やっぱりそろそろかー!」

上記の会話は本当に事実で、まったく何も言ってないに近いのに、意思疎通できていました。

こうして、親に苦労をかけて、県外の私立の四大を卒業させてもらって、やっとこさ二人とも一部上場企業に就職した僕達兄弟は、これまた揃って会社を辞めてしまうことになるのでした。

(続く)


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 08:53Comments(0)起業の思い出

2008年12月17日

大企業を退職する決意2

世はバブルの後遺症がまだまだあって、不況の嵐。てこいれのため、何度も何度も景気対策の予算が組まれました。それまでインターネットを細々としたモデムで利用していた私立大学にも大量の助成金がつき、国立大学には新社会資本という名目で数億円単位のネットワーク整備予算がばら撒かれました。国立高専にも5,000万円規模の予算がじゃんじゃん。大学、研究所を担当していた若手の営業は先輩Uさんと僕だけだったので、二人で手分けして、他社に先んじて、ネットの魅力を片手に東海地区において片っ端から受注していきました。結局、その年の営業成績は、中部支社において、僕が一位で、先輩が二位という状態。まぁ、民間が冷え込んでましたんで当然といえば当然なんですが・・・。

その営業活動の中で、益々、インターネットの可能性を実感していました。僕は数千台の日立のPCを売っていたのですが、自分には会社のパソコンが回って来なくて、仕方なく自腹でMacを買って仕事に使っていました。Windows3.1に比べてネットとの親和性も高いMacを武器に、まさにインターネットのエバンジェリスト化して、「森田=インターネット」というイメージが社内外に広まりました。1995年のことです。時はWindows95が発売される直前。

当時のことを振り返ると、インターネットという熱にひとり浮かれていたんだと思います。まだ民間では「インターネット?はぁ?」という状態でした。大学、研究所ではあたり前の言葉が通じません。ただ、僕はその可能性に加え、Windows95で一気にネット時代に突入するような予感がしまくっていたのです。そんなときに、営業で一位になってもボーナスも増えない会社にいて、社畜として過ごしていていいのだろうか?会社の思惑ひとつで子会社に転籍になるような立場でいいのだろうか?お客様のためにがんばる社員より、昼間は遊んでいて釣りの話だけしていて、社内接待だけで出世する人間でいいのだろうか?実力よりも学歴やコネが優先される会社にいていいのだろうか?わずかな給料で結婚し、築30年ぐらいの汚い社宅で新婚をスタートさせていいのだろうか?

いろんな思いが交錯して、僕は実の兄に電話をしたのでした。

(続く)

こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 09:49Comments(1)起業の思い出

2008年12月16日

大企業を退職する決意1

今回は趣を変えて、起業の思い出を何度かにわけてつづって行きたいと思います。たぶん長くなります(笑)最初は、思い出話中心ですが、起業の苦労や楽しいことを書いていきたいと思います。ご参考になることもそのうち出てくるかと・・・。




僕は1992年に、大企業である、日立製作所に入社。名古屋に配属になって官公庁や大学にスーパーコンピュータや汎用機、ワークステーション、パソコン、ネットワーク機器を販売していました。販売といっても飛び込みで売れるようなものでもなくって、一年がかり、三年がかりで提案して売っていく、けっこう大掛かりなプロジェクトでした。パソコンも一度に500台とか平気で売っていて、搬入日などはコンパクトなカッター片手に段ボールをあけて解体するのが得意でした。

インターネットにはおそらく日本の文系の人間としてはかなり早くから触れていたと思います。最も重要なお客様に、分子科学研究所というところがあったのですが、ここの先生方はノーベル賞の卵みたいな方ばかりで、どんなことでも「一番」じゃないと気がすまない人たち。インターネットの技術においても、現在のギークな若者達も真っ青な好奇心で毎日、毎晩触りまくっていました。僕も興味はあったので、質問はしてみるのですが、熱心に説明してくれる内容はちんぷんかんぷん。ただ、現地に常駐していた、これまたオタクな日立のSE連中がものすご詳しく、わかりやすく、嬉しそうに説明してくれるので、こんな僕でもネットの魅力は充分理解できました。

(続く)


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。  


Posted by kmorita at 09:54Comments(0)起業の思い出

2008年12月09日

アイデアノートで思索する

更新の間があいてしまいますね、最近。個人ブログサイトの方を読んでくれている人はおわかりかもしれませんが、もっぱらカニ捕りやらビーチコーミングやら、最近ではツリーイングなんかにも興味持って、ほとんど「本業かよ」っていう勢いで普及活動しています。その影響も。

もうひとつは、現在の僕達の会社の仕組みがけっこうできあがってきていて、数字もそこそこ出るし、かといって徹夜続きなどではないので、ちょっと踊り場感が出ているのも事実。がつがつ営業していなくても、いいお話いただけて、少ない営業工数で済んでいる分、品質面に時間をかけることができているとも思います。

ただ、こういう踊り場の時こそ、経営者としては改革改善の手を緩めず、夢と戦略をもって次の絵を描いていかねばなりません。問題点を発見し、早朝会議の議題にしたり、個人面談の話題にしたり、仕組み化可能と判断すれば着手したり。お客様を増やす、あるいは維持するための新たな施策を考案したり、現在のルーチンワークを見直したり。

僕の場合は、雑誌や本を読んでいる時に課題やアイデアを思いつくことが多いです。そういうものをアイデアノートにメモでためていきます。ネットで参考になりそうな記事を読んでいる時も思いついてもいいようなものですが、不思議と出てきません。

アイデアノートは定期的に読み込んで、アクションプランに落としていきます。大半は、「早朝会議へ!」ってことで早朝会議のメーリングリストに投げます。これで僕にとってはひとつ終了です。

早朝会議

個々のマネージャレベルでじっくり考えるべき課題だな、などと感じた場合は、直近のマネージャ早朝面談で話題にします。

アイデアノートは寝かせておくと、時間の経過と共に新たなアイデアの素になったり、組み合わせて具体的なプロジェクトとして動き出したりと、解決したような項目でも印だけつけて置いておきます。創業時、10年近く前のノートでもけっこう参考になることが多いものです。書いてる内容はかなり恥ずかしい事だらけなんですけどね。


こちらもどうぞ!
Gofield.com編集長の弁

感想などお聞かせください。また、ぜひいろいろ情報交換させてください。お役に立てれば幸いです。
  


Posted by kmorita at 13:14Comments(0)知的生産力をあげる